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瀬名莉子が死んだ夜、警察に見せられたのは、私が送った三文字だった。
『消えて』 送信時刻は午後八時十三分。彼女が恋愛リアリティ番組『RE:PAIR』の共同生活棟、その設備区画で発見される一時間半ほど前だった。 取調室の机には、透明な袋へ入れられた私のスマートフォンと、口をつけていない紙コップが置かれていた。刑事は調書を指で追う。職業欄には〈生活雑貨ブランドmellow note 商品企画〉と印字されていた。 「水城真帆さん。このメッセージは、あなたが送ったもので間違いありませんか」 画面の三文字は指先で隠せるほど小さい。それでも、もう消せなかった。 「はい。私が送りました」 死んでほしかったのかと聞かれれば、違うと答える。けれど、私たちの前からいなくなればいいと思ったことまで否定すれば、そのほうが嘘になる。◇
十日前、瀬名はまだ生きていた。
共同生活企画の二十日目の朝。番組が借り切った家には油と照明機材の熱がこもっていた。離婚や破局を経験した男女が、一か月、仕事や自宅への出入りを挟みながら共同生活棟を拠点に過ごし、デート企画を重ねて、最終生放送で関係を選び直す。 復縁すると決めて参加したわけではない。一か月も顔を合わせれば、戻りたいのか、もう終わっているのか、そのくらいは分かると思っていた。 私の相手は、五年前に離婚した元夫、深見景都だった。企業の炎上や事故対応を請け負う危機管理会社LATTICE SHIELDの代表だ。 キッチンには三台のカメラがある。まな板だけでなく、誰が誰を見たかまで残す配置だった。 「はい、お料理のシーン頂きます。カメラ回します」 赤いランプが点く。私はパプリカを同じ幅に切った。 視界の端に、赤いスカートが入る。 「真帆さん、お手伝いしますよ」 瀬名莉子がレンズへ笑いかけながら隣へ立った。元アイドルで、途中参加の〈New Choice〉。壊れた関係へ新しい選択肢を差し込む役だ。 「ありがとうございます。でも、大丈夫です」 「糸、出てます。危ないですよ」 断ったのに、瀬名の指が背中へ回った。衣装の留め具を摘まみ、首の下に触れる。布を直すだけにしては長い。 振り払えば、その瞬間だけが使われる。若い女に苛立つ元妻。番組が欲しがる画が浮かんだ。 その一瞬の遅れを、瀬名は見逃さない。 「手、震えてますね」 弾む声のままカメラへ背を向け、耳元へ唇を寄せる。 「赤ちゃんのもの、今も見られないんですか? だから、あんなに得意だったお料理も、しなくなったんでしょう?」 刃先が止まった。 五年前の病院。白い天井と消毒薬の匂い。目を覚ました時、下腹部の重さだけがなくなっていた。 話したのは景都だけだ。母にも、親友の宮坂灯にも、会社にも言っていない。 「あのこと、どうして知ってるの」 瀬名はカメラへ向けた笑顔を崩さなかった。 「あ……景都さんから、聞いてないんですね」 「答えて」 「私から話すことじゃないので」 答えはないのに、景都の名前だけが二人の間に残った。 瀬名は私の顔を一度見て、またレンズへ笑った。 振り向いた拍子に、汗ばんだ手の中で包丁の柄が滑った。人差し指へ熱い線が走り、白いまな板に血が落ちる。 「止めろ。カメラ止めろ」 低い声がキッチンを切った。 スタッフより早く景都が入り、私の手首を取る。白いハンカチで傷を押さえた。布の端には、結婚して最初の誕生日に私が選んだKの刺繍がある。 「手、上に。指を動かすな」 「これくらい、自分で――」 「今だけは任せて」 救急箱を抱えたスタッフが来ても、景都は消毒液とガーゼだけを受け取った。 「深見さん、撮影の尺が――」 「止める。医務スタッフも呼んで」 彼が顔を上げると、ディレクターは黙った。 景都の肩越しに瀬名を見る。 さっきまで耳元で笑っていた女が、今は口元を押さえていた。 「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」 スタッフにも聞こえる声だった。 「景都が、あの人に話したの?」 包帯を巻く指が止まる。 「話してない」 「だったら、誰が」 「分からない。確認する」 瀬名はいつの間にかキッチンから消えていた。 作業台には切りかけのパプリカと、血を吸ったガーゼが残る。三台のカメラは止まっていたが、どれもこちらを見ていた。 私の質問だけが、包帯の外に残った。洗った茶碗は二つ並んでいるのに、ソファには誰もいない。畳んだ毛布を抱えて押し入れまで行き、上段へ入れる前に手が止まった。来週使う予定があるわけでもない。だからこそ、今すぐ奥へしまう必要もない気がした。 結局、毛布はソファの背に掛けた。 昼前まで眠ろうと思ったが、八時には目が覚めた。洗濯機を回し、冷蔵庫の卵を数え、昨夜開けた水を飲む。することはいくらでもある。なのに玄関へ行くたび、最後に景都が立っていた位置を見てしまう。 帰ってと言ったのは私だ。 あのまま残られても困った。 それでも、帰ったあとに寂しいのは別だった。 昼過ぎ、灯から仕事のチャットが来た。来週の販促写真について、金具の反射をどこまで消すかという確認で、私は三分で返した。そのまま画面を閉じようとして、映画の広告が目に入る。前に景都が原作を読んだと言っていた作品だった。 チケットのページまで開き、一度閉じる。 昨日のことを何も話さず、次の予定だけ決めるのは逃げだろうか。逆に、昨日を全部整理してから会おうとする方が、景都の予定表みたいで嫌だった。◇ 夕方、買い物へ出た。塩、牛乳、卵。売り場で小袋の米を見て、粥はしばらくいいと思う。レジへ並んでいる間にスマートフォンを開いた。『来週の土曜、映画行かない? 昨日のことを話すためじゃなくて、普通に』 送ったあと、袋詰めをしながら何度も画面を見る。既読はつかない。仕事中だと分かっているのに、牛乳を冷蔵庫へ入れる頃には取り消したくなった。 十八時十三分、返信が来る。『行きたい。何時にする』 昨日の玄関には触れていない。『午後。まだ決めてない』『作品は』 タイトルを送ると、少しして『見たい』と返った。 私は冷蔵庫の扉を閉めたまま、画面を見る。 帰ってと言ったのは私なのに、景都はそれを拒絶されたとは受け取っていないらしい。次の約束をなくす理由にもしていない。それだけで十分だった。『じゃあ時間、あとで送る』 送信直後、もう一通届く。『土曜、空いてる』 午後の上映時間を調べる。十
景都の視線が一度だけ私の口元へ落ちた。 私の手がジャケットの袖を掴む。引き止めたつもりはなかったのに、景都が止まった。 景都は袖を見下ろした。「どうした。掴んでる」 まだジャケットを渡していなかっただけだと答えたが、布はもう彼の手にある。景都はその矛盾を口にせず、私の指が離れるのを待った。「いちいち見ないで。分かってるって」 言いながらも、景都は近づかない。私が掴んでいる分だけ、玄関に残っている。「さっき、顔が近くなった時……キスしようとした?」 景都は数秒黙った。「したかった」 答えは短かった。景都の喉がわずかに動き、ジャケットを持つ手へ力が入る。平然として見えたのは、欲しくないからではなかった。「前の私を知ってるから、言わなくても分かるんじゃないの」 答えはすぐには返ってこなかった。「知ってる。だから余計に分からない。昔の君なら、たぶん今、キスしてた」 胸が跳ねた。言われた場所から順に、身体が熱を思い出す。「でも今やったら、また怒られる気がする」「怒るかもしれない」自分でも意地悪だと思った。「でも、何もしないのも腹立つ」景都が本気で困った顔をする。その顔を見たら笑いそうになって、余計に悔しかった。「景都」「何」 帰ってほしくない、と言えばよかったのかもしれない。でも、口にしたら今夜がこの先まで進みそうで、怖かった。「……今日は、帰って。さっきのこと、まだうまく嬉しいだけにできないから」 景都は一度だけ頷いた。「分かった。じゃあ帰る」 あっさり言われると、それはそれで胸が詰まった。帰ってと言ったのは私なのに、引き止める理由を探しそうになる。玄関には、昨夜の濡れた靴の跡が薄く残っていた。 景都がドアノブへ手をかける。「忘れ物――」 言いかけてやめた。財布も鍵も時計も、自分で確認する人だ。「何?」「何でもない」 今度は私が使った言葉に、景都の眉がわずかに上がった。
景都は一口食べ、塩の瓶を見たが、そのまま茶碗へ戻った。 私はもう一度、今度はさっきより多めに振った。景都は自分の茶碗を引き寄せる。「景都は足さないの?」「一回食べてから」 景都は塩の瓶を取った。二回。私より少ない。瓶をテーブルの真ん中へ戻し、もう一口食べる。私も食べる。同じ鍋からよそった粥なのに、途中から味が違った。 私は自分の茶碗を傾けて底の米をすくった。景都は私の塩加減を見ても口を出さず、自分の方だけをもう一度味見した。 景都の茶碗は、私のものより色が薄い。「本当にそれでいいの?」 彼は一口食べ、「別でいいだろ」と言った。昔は塩を足さなかったはずだと尋ねると、一人の時に試したらしい。「今さら?」「離婚してから」 短い答えの向こうに、私の知らない朝がいくつもあった。 私のいない台所で、景都が塩の瓶を取った朝を思い浮かべる。塩パンもブラックコーヒーもそうだった。知っていたはずの人に、私の知らない味が増えている。 景都の茶碗が先に空く。彼は鍋を洗おうと立ち上がり、私がまだ食べているのを見て座り直した。「音がするから、食べ終わってからでいい」 もう起きている、と返しても、彼は時計を見ずに待った。 六時半まで、もう数分しかない。電車は動いているし、昨夜濡れたジャケットも乾いている。それでも景都は時計を見直さなかった。私は最後の一口を急がずに食べる。 食べ終えると、景都が二つの茶碗を重ねた。私の分だけテーブルに残す。昨夜貼った絆創膏へ目をやって、流しへ持っていくのをやめたらしい。「絆創膏を貼ってても、茶碗くらい持てるよ」「知ってるよ。俺が立ったついでだから」 景都は自分の茶碗と鍋だけを洗う。蛇口の音の向こうで雨がほとんど聞こえなくなった。「次に作るなら、米粒をもう少し残して。煮すぎないで」 景都が水を止める。「次も作っていいのか」 言い直すこともできた。今日の粥の話だけだと言うことも。「次は、粥じゃないのがいい。食べたいもの、先に聞いて」 景都が玄関で靴を履い
扉を開けて、ソファでは狭いからこちらへ来るかと聞くこともできる。想像しただけで、また喉が渇いた。一時半を過ぎ、リビングの明かりが消える。扉の下から入っていた細い光もなくなった。それから何分経ったのか分からない。喉が渇き、ベッドを抜け出す。扉を開けると、部屋は暗かった。窓の外の街灯だけで、ソファの形が見える。景都は横向きになり、短い布団から足を出していた。 起こさないよう台所へ向かう。「水、飲みに来た?」 暗闇から声がした。「起きてたの?」「今、扉の音で起きた。何かいるか?」 景都が身体を起こしかける。「寝てて。自分で取る」「分かった」 すぐまた横になる。冷蔵庫から水を出すと、棚に夕食の残りのご飯が一膳分あった。明日の朝に食べようと思い、そのまま扉を閉める。グラスへ注いだ水を、立ったまま半分飲む。ソファからは景都の呼吸が聞こえない。眠っているのか確かめたくなり、暗さに目を慣らした。「朝、出る時……」 言いかけると、景都が目を開けた。「起こした方がいいのか?」 先回りされたことに腹が立つより、言えなかった自分の方が苦しかった。「……まだ分からない。やっぱりいい」「朝、出る時」の続きは、起こして、と言いたかったのだと思う。けれど口にする前に、急に恥ずかしくなった。水を飲み終え、空のグラスを流しへ置いた。 ソファの前を通る時、景都はもう目を閉じていた。眠ったふりかもしれない。私は名前を呼ばず寝室へ戻った。 米の匂いで目が覚めた。枕元の時計は六時十二分。外では雨が細く残り、部屋の中から鍋の蓋が鳴る音がした。台所へ行くと、景都が昨夜のご飯を小鍋で煮ていた。シャツには皺があり、袖を二度折っている。「断りなく台所使ったの?」 景都は木べらを止めた。昨夜のご飯が一膳分残っていたので、起こす前に作れると思ったらしい。「私が朝に食べようと思って残したの」 鍋の蓋から落ちた雫が、火の上で小さく鳴った。「……それなら、先に聞けばよかった」 鍋
「明日は六時半には出る。いったん家へ戻って着替えたい」「日曜なのに、そんなに早く?」「このシャツのまま一日過ごすのは、ちょっと落ち着かない」 この部屋に彼の服はない。さっきクローゼットを開けなかったのは、貸せる服がなかったからだけじゃない。景都の服が一枚もないことを、見たくなかったのかもしれない。スマートフォンの充電を確認し、景都はソファへ腰を下ろす。私も寝室へ行けばいいのに、テレビの消えた画面をしばらく見ていた。 寝室へ向かう前、照明をどうするかだけ聞いた。景都は私が寝てから消すつもりらしい。「自分のタイミングで消して」「そうする」 実務の確認はそれで終わったのに、私は扉へ手を掛けたまま動けなかった。 寝室の扉へ手をかける。閉めれば、元夫が壁一枚向こうで眠る。結婚していた頃は同じベッドに入っても、景都がいつ眠ったか知らない夜が多かった。今はソファの布が擦れるだけで気になる。扉を半分閉じたところで、振り返った。 洗面所へ戻ると、未開封だった歯ブラシの包装だけがゴミ箱にある。景都の財布、鍵、時計、充電器。朝になれば全部持って帰る物ばかりなのに、見慣れた部屋の輪郭が少し変わっていた。置いていく物はない。それでも、今夜ここにいた痕跡までは消さなくていいと思った。「景都」「どうした」 景都がソファから顔を上げた。呼んだ時には、続きがあると思っていた。泊まってくれてよかった。明日の朝、黙っていなくならないで。どれも口にすると、今夜へ意味を足しすぎる。「……何でもない。呼んだだけ」 景都は問い直さなかった。「明日、何時くらいに起きる?」「七時くらい。たぶん」 ソファの布が、景都の座り直す音を小さく立てた。「なら、起こさないように出る」「鍵は内側から閉めればいいから」「分かった」 実務の話だけを終え、私は扉を閉めた。ベッドへ入っても眠れなかった。エアコンの音に混じって、ソファの布が一度鳴る。景都が寝返りを打っただけだと思う。時計を見ると、まだ零時四十分だった。スマートフォンを開く。普段なら、帰宅した
困る。困らない。どちらもすぐには選べなかった。景都は返事を待ち、予約画面を進めない。私の部屋には寝具が一組しかない。それでも、彼が座っているソファなら、人一人が横になれる。「ソファでいいなら……泊まってもいいよ」 景都はホテルの予約画面を閉じる前に、一度こちらを見た。「本当に、泊まっていいのか?」 夫婦だった頃なら聞かなかった質問だった。「ソファだけ。寝室には入らないで」「分かった。寝室には入らないよ」 条件を増やして安心させようとはせず、予約ボタンから指を離した。 景都はソファの長さを見下ろした。私は、そこへ本当に寝るつもりなのかと聞く。「泊まっていいと言ったのは君だろ。嫌なら、今からでもホテルへ行く」 嫌ではない。ただ、彼の足が確実にはみ出す。その言い方を探していると、景都が先に口元を緩めた。「さっきから、君も嫌じゃないことしか言わないな」 景都はホテルの画面を閉じた。押入れの上段から薄い掛け布団を出す。来客用に買ったまま、一度しか使っていない。シーツの折り目が残り、柔軟剤の匂いもほとんどしなかった。景都が受け取ろうとする。「私が敷くよ。来客用の向き、分かりにくいから」「布団の向きくらい分かるよ」「私の家では、私が分かる方にさせて」 布団の端を引く方向がぶつかり、二人とも一度手を離した。結局、私が片側、景都が反対側を持ってソファへ掛ける。一人で寝るには少し短い。景都が横になれば、足首が肘掛けから出る。「足を少し曲げれば入る」 景都が実際に腰をずらして横幅を測り始めたので、私は布団の端を引いた。「今、試しに寝なくていいから」 寝られなければ私が気にする、と彼は真顔で言う。ホテルのベッドまで長さを確認するのかと尋ねると、写真の比率と寸法は見るらしい。 失敗したくない、という理由まで、いかにも景都だった。 本当に見る人だった。 掛け布団を置くと、肘掛けから景都の足首が出るのが目に見えた。「狭い?」 彼は一度ソファを押して確かめ、「寝られる